昭和41年03月12日 朝の御理解



 昨夜の御理解の中に、信心の道の険しさ厳しさ、確かに険しいものであり厳しいものであるけれど、それには楽しみと有難しという一念、そういうものが伴うていくところにその険しい道も厳しい道も、いわゆる教祖が仰る、信心はみやすいものと仰る、見やすいということになってくる。楽しゅう、有難う歩かして頂く道なのですから、やはりそれは見やすいものということになってくる。
 そこで、その信心の道を、その信心の道というのは、金光教の信心の、お道の信心で申しますとどこまでも、生神金光大神という、それを目当てというか目指しとしての、信心修行でございます。ですから、まぁ言うならもう本当に私共にと、から申しますと、その高嶺も高嶺、大変な高嶺でございましょうけれども、やはりそれは登ろうという気持ちになれば登れれる道だと。明治天皇の御製の中にございますね。「大空にそびえて見える高嶺にも、登れば登る道はありけり」と。
 「この方のことを生神、生神というけれども、この方ばかりが生神ではない。みんなもこのようなおかげが受けられる」と「この方がおかげの受けはじめ」と、はっきり教祖の神様は仰っておられるように、私共が、はぁもうあんな高嶺にはとても登れないて。と初めから言うておったんでは、登れません、ね。登れば登る道はちゃんとある、いやもう道はつけておって下さるのだと。
 そこに、私はひとつの、生きがいというかね、成程だからそうした道を登るのですから、険しいことであり難しいことでありますけれども、けれども信心は見やすいものとこう、何故見やすいかと言うと、それには楽しい。何故楽しいかというと、視野が広がってくる、ね。高い所から下を眺めさしてもらえば、段々視野が広がってくると、いわゆるものの見方ってものが全然変わってくる、ね。
 難儀と思うておったことが難儀ではない。いわゆる肉眼をおいて、心眼が段々開けてくる、ね。同時にそれが高められるにしたがってです、それは影の形のように、お道の信心の場合は影が伴うのであるということ。高められれば高められるだけ、その影もまた大きな高い影が伴うということ。いわゆるおかげが伴うてくるというところにです、楽しみがあるのですよ、有難さがあるのです、ね。
 ですからその有難いのであり、楽しいのであるから、成程険しい厳しい道なのだけれども、また見やすいということも言えるわけでしょうが。私、今日は御神前に出らせて頂いたら、何かもう本当に奥山という感じなんですね。それにこんもりとこう、杉の木立の中に、あの水車が回っておるような情景を頂くんですね。でまあ、私それから、歌の文句じゃないですけど、そんなものを感じたんですね。「奥山で一人米つくあの水車、誰を待つやらくるくると」と言った様な感じが中からするんですね。
 だからそのお道の信心というのは、どこまでもその奥山にですね、奥山に引きこもっておると言った様なものではないと。滝に打たれたり断食をしたり、ね、それこそ誰でも登って来れないような奥山に、仙人のような生活をしながら、悟りの境地を開いていこうと言った様なものではない。なるほ、私共がそう言う様な、この生き方にです、非常にあこがれた時代があるんです。あのう禅寺ですね、久留米のあのう梅林寺、梅林のお坊さん方が本当にあのう、墨染めの衣に素わらじですか、ね。
 あれにあの饅頭傘をかぶってから、修行をしておいでられておられる、言わばこの世とあのあぁそのう、その現世とから切り離されたような、言わば生活ですよね、そしてその仏道一途に精進しておられる、あぁいう姿に触れるとですね、もうそれが羨ましゅうして、あぁ言う様な生活、あぁ言う様な信心の稽古をさせて頂いたら、どんなに有難い境地が開けるだろうかと言った様にですね、思った時代があるです私にも、ね。
 ところがです、金光様の御信心は決してそんなものではないということ。言うならば本当にこの世の、いわゆる欲悪、煩悩の川中にです、道を求めていくというのがお道の信心なんです。煩わしい人間関係の中にあって、ね、いわゆる欲と悪とが渦巻いておるその世の中にあって、そういう只中にあって、真の道を求めていこうというのが信心である。「この方の行は火や水の行ではない、家業の行」と仰る、ね。
 その家業がそのまあ行なんですけれども、その中に道を求めていく。成程ですね、もう見らん聞かんということになれば、確かに人間の心、非常に氷のところに進むことができますですね、確かにそうです、ね。甘い物好きな人がです、甘い物のない世界に行ったら、そんなに甘い物を外に下りて来てから、食べようと言った様な気持ちはするまいと思うです。けれどもその、目の前にですね、甘い物がある、ね、それをじっと辛抱するということが難しいのですよ、ね。
 あるまぁ言うなら、仙人のような人ですよね、山に何年とこもって、そしてまあ大変な神通力を得たんですね、いわゆる霊能者になられたんです。霊界のことが分かったり、いわゆる、千里眼的なぼんぼん分かるようにそのなられた。ほいで、もうその町に下りて来られて、まあ難儀な人達を助けて行かれた。ところがです、一年余りしておられるうちに、段々その神通力がなくなって来た、ね。
 それでまた山に帰られたという話を、聞いた事がありますけれども、それは確かにそうだろうとこう思うですね、だからそれでは実用にならないでしょうが、ね。また山に帰って行かなきゃならんと、言った様な事ではでけません。お道の信心はどこまでもです、ね、様々なお仕事、言わば商売をさしてもらい、百姓をさしてもらい、また勤めさしてもらい、また家庭の中にあってです。
 本当に欲悪煩悩を感じながら、目の当たりに見ながら、煩わしい人間関係の中にあって、心の中に有難しという勿体なしという、そういう気持ちを開いていこうというのであるから、見やすい様であって難しい。けれどもそこにです、教祖の神様ははっきり、実意丁寧神信心という道を、打ち立てておって下さると言う事です。現金光様が仰られる様にです、もう全ての事に、実意をもって大切にしていこうというのです、ね。
 ですからそこのところをです、私共の生活の中に頂いていかなかったら、お道の信心はありません、ね。その場合に成程厳しさを感じたり、難しさを感じるのでございますけれども、そこのところを、実意を持って丁寧に、全てを大事にしていくと言う様なです、生活の状態、あり方にならなければです、信心を頂いておる、言わば視野が広がっていくということもなからなければ、又その視野が広がっていく、そこに伴うてくるおかげの体験もないのです、ね。
 信心に専念すると言う事は、お道の信心では、だから梅林寺のお坊さん当りの様にです、ね、あぁいう精進しきったものだけの生活の中に、道を求めるというのではなく、山に籠って悟りを開いていこうというのでもなく、ね、現実のこうした生々しい、欲悪煩悩の、言うなら渦巻いておるその只中にあってです、真の道を、人間の本当の生き方をです、真実幸せになれれる道をです、求めていこうというのでございます、ね。
 ですからそれを求めていこうとしなかったらです、それはお道の信心、お道の信心を頂いておる者の値打ちはないわけです、ね。それならひとつも難しさはないわけです、まず乗り越える楽しさもなからなければ、有難さも私はないと思うです。私共の目の前に展開してくる一つひとつの問題、ね、それをいかに信心で頂いていくということが、信心か。それをいかに実意で、に頂きしていくことが信心かと。ということをです、私は追及しながら生活さして頂く。
 お取次を頂いて、今日一日の上に、そういうおかげの頂けれる、どうぞ実意であらして下さい、全てを大切にさして下さいと、ね。見やすいようであるけれどもそれは、ね、山の中にこもることよりも、その欲悪の渦巻く世の中からです、隔離した離れた生活よりも、いわゆる人間離れのしたところの信心からです、もう私共と共にあって下さる、天地の親神様の働きの中にです、神様の本当のお心を悟らしてもらい、分からして頂こうという信心が、私はお道の信心であるとこう思うのです、ね。
 ですからそこにです、成程人間生活の難しさと生きていくということの難しさと。昨日、善導寺からある方がお参りをされてから、その方の近所の方の話をしておられましたが、私もよく知っておりますけれども、もう本当にあげん人ばこなしておってから、泣かせておってから、どうしてあげん儲けたんじゃろうかっち、いう人があるわけです、それももう5年10年じゃありません。もう長年だと、親代々から、やはり、もうやっぱ儲けだしていかれるわけです。立派なお家も建てられたんです。
 でもそれ一家を挙げて、やっぱり人からそれを言われる様な、人達ばっかりなんですよね。爺さんもそうだったけれども、婆さんもそうだと。息子もそうなりゃ嫁子もそうだと。私知っておる限りでは、もう3代続いておる訳ですけれども、3代の中でやはりひとっつも、んならその財産にひびが入ろうともしない、ますます繁盛していかれとるです、ね。もう本当に何不自由なかごとあるけれどもです。その中にあってです、爺さんなら爺さん、婆さんなら婆さん、若い夫婦は若い夫婦で、所帯が別だそうです。
 そこの爺さんという人はもう最近、もう寝込んでしまっておるそうですが、もう婆さんが言われるそうです、もう死ぬならすぐ早よ片付けな、どうこうされんちゅうて言われるそうです。もう、もう病人の前で言われるそうです。その病人のお爺さんは、もうとにかく医者にかかったってよう診せきらんけんで、酒もだるだるとしてから、病院にかかわんな、もう酒を毎日飲まれるそうです。
 その人まぁだ生きて、あの生きておられるっち、まだ生きておる訳ですけれども、まだ五体が自由な時代はですね、近所の食料品やに中入ってから、なんでん黙って盗って来らっしゃるそうです。あの爺さんにこりらっしゃったにゃ、用心しとかにゃ何でん持っていかっしゃるよちゅってから、皆用心するごたるそうです、ね。現在ではもう全然、その何というですか、もう誰んその構わんそうです。ほらもう立派なお家に住んでおられると、お家は、ね。
 その話を聞かせて頂きながらですね、ははぁ人間の幸せというのは、綺麗な家に住んだり、沢山のお金を持っておると言う事だけじゃないと言う事、ね。いわゆる欲悪煩悩にほだされながらです、いわゆる極楽と地獄の境をうろうろしながらです、とうとう地獄に落ち込んでおる姿だと私は思うです、ね。それを信心の、ないしは信心のある者でもです、ね、あがしこ人を泣かせてから、金を儲けた人達がです、どうしてその良か目にあうじゃろうかというごたる、見かけだけはそうなんです。
 しかし中に一歩入ってみるとそうなんです、人間は一生送ってみなきゃ分からん。死に際見なけりゃ、その人の一生は分からん、と言った様な事を言うけれどもです、あの言わばくそ婆になってから、まぁ死んでいかれるに違いないですけれども、そういうその浅ましい姿です、そして自分でも言われるそうです、もう私達はもうならやっぱ人を泣かせとるけんで、良か目は合おうちは思わんちから、やっぱ話されるそうです、ね。
 けれどもなら、そこまで極端ではなくてもです、五十歩百歩の生活をしておって、人間の幸せはあろう、あろうと思われない。欲もすりゃあ悪もした方がです、馬鹿らしいちゅうごとあるけれども、そういう中にあって、実意丁寧神信心の道というものをです、ね、親切の道をです、真心の道を体得さして頂いてです、場合によってはです、月のさし込むような、あばら家に住んどるような場合があるかも知れんけれども。
 その中身にはです、寒い中にあっても暖炉が明々と燃えておるような、温かい雰囲気の中にです、ね、信心の道を進めていこうというのである。真の道を人間としての本当の道を求めていこうというのである。ですから、その一つひとつの問題に対峙した場合です、直面した場合です。これはどうあることが信心なのかと、教祖はこういう場合にどういうふうにして、ここのところを通っておられるのかと、言う事を教えに説いておられるのですから、いやその教えに基づいたところの生活、ね。
 そこに私日頃、申しますように、ね、神徳人徳を身に受けさして頂いて、ね、成程そこをです楽な方にいく、欲悪の方に行けばです、いかにも便利がよい、分が良い様にあるけれども、それでは本当なものでないと、人間の幸せはない、ね。馬鹿を見るようであるけれども、損のようであるけれども、そういう生き方の中にこそです、実意丁寧の道というのはあるのであって、そう言う事をです私達は厳しいと思い、険しいと思うのですけれども、厳しいけれども険しいけれども、そこには楽しみがある、ね。
 喜びある、しかもその楽しみとその喜びには、必ずおかげが伴うておるという信心なんです、ね。だからそこの所の体験をです、そこの所のおかげを日々現して行く所の生活でなかったならばです、私はお道の信心をさして頂いておる値打ちはないと、私は思うのです、ね。ですから場合によっては、成程神信心も難しいなあ、厳しい事だなあと、私は感じれれるものでなからなければ、ほんなもんじゃないと、ね。
 けれども、そこんところを、ある場合には、辛抱し抜かしてもらい、ね、頑張り抜かせて頂いて、本当の道を歩かして頂いた、その後にです、味合わせてもらうところの真味というか、信心の味わいというか、ね、喜び、信心の喜びというものを、分からしてもらう、高められれば、高められるだけ、自分の視野が広がって来る。ものの見方考え方が変わってくる、ね。
 昨夜、その方が、という善導寺の方にお取次さして頂く時に、御神米を下げさして頂く時に、お書き下げを頂いた中にですね、「すがったら任せよ」という言葉を頂いた。ね。皆さん、例えば神様どうぞと言うてお縋りなさるでしょう、ね。すがっとって任せんところに、いつも自分の心の中に不安があり、心配があるのです、ね。頼むなら縋るなら、んなら私に任しとかんのと、こう神様が言いよんなさるとじゃもん、ね。
 縋ったら任せにゃいけません。そこにです、私はやすらぎの感じれれる信心にならなければだめだということです。(?)難しい問題があっても、ね、私共ならぎりぎりの時にはそこがあるでしょうが、信心さして頂く者には、ね。いよいよいかん時にはおすがりをすると、お取次を頂く、ね。そして、いわゆる任せるところの信心、ね。そこに神様にお任せさして頂いておるという、心の安らぎの中にです、私共の見間違いのないように、見失わないように、真の道をはっきり見つめさして頂きながらです、ね。
 実意丁寧な道を進まして頂くのであり、歩かして頂くのではある、ね。そこから私共がです、ははぁこういう調子で信心を進めていけばです、いつかは、あの高嶺にも登れれるんだという、ひとつの楽しみをもってです、お互いがお道の信心さして頂く者でなからなければ、味わえない本当のお道の、真味というか喜びを頂かしてもらう生活にならなければいけない、ね。
 そういう気でおりながら、真の道におりながら、真の道を踏まぬことと仰るが、ね、真の道を踏まなかったらです、今日私が申しますようにな、おかげにはなってこないとこう思うのです。また、私が申しますような、お徳にも触れていく事は出来ないと思うのです、ね。どうぞ本日一日をです、もう一言一言、一こま一こまをです、ね、実意をもって全てを大切にしていくところのおかげを頂きたいと思う。実意丁寧神信心をもって、おかげを頂いていきたいと思う。私共の信心がです。
 本当に何か知らんけども、その有難い有難いというものを、本気で求める時です、本気で修行の一つでもさして頂こうという時です、確かに誰でもが一応は憧れるであろう、奥山にでも引き籠ったならと言う様な時代もあります。けれどもその中にはです、人間の生きていく本当の道はないと言う事です。仙人になりきってしまえばいざしらず、ね。やはりある意味合いでは、ね、生臭気を食べながらです、ね。悪、欲悪煩悩の中にありながらです、それにほだされずに、極楽の道をひたすら、一筋にです。
 進んでいくと言う事は出来ないです、ね。その欲悪な煩悩の中にあってです、ね、それに吸い込まれてしまうような生活に、堕落してはなりません、ね。そこを難しいと言うなら難しいのであり、険しいと言えば険しいのですけれども、そこんところを乗り越えていくところにです、いよいよ信心の、いわゆる高度な信心というものがです、あるわけです。どうぞそういうね、ひとつ目指しをもってひとつもう、高嶺を本当に目指しての信心にならなければいけないと思うですね。
   どうぞ。